4月になり、新生活がスタートした方も多いかと思います。キャッチサーフジャパンでも、キャッチサーフ社広報、アジア担当エージェントであるプロサーファー、NAKI(ナキ)氏による新ブログシリーズがスタートします。
記念すべき第1回は、キャッチサーフ誕生秘話ということで、世界を変えたこのブランドは一体いつ、どこでどうやって生まれたのかについてをあらためて紹介します! パチパチパチ~
キャッチサーフの歴史は、ジョージ・アルゼンテ(George Arzente・写真)の歴史でもある。
ジョージは、ニューヨークの不動産開発業でミリオネア(大富豪)となった。
彼は、およそ1年間の休暇を取り、幼少のころ住んでいた南カリフォルニアのラグナビーチに向かい、大好きなサーフィン漬けの日々を送っていた。
さて、ラグナビーチのオークストリートというのは、硬派な波質で、そこに集うサーファーたちも本物が多かった。ハンス・ヘーガンやジョン・ローズたちがいつもいた。
ジョージはオークストリートのメインブレイクで、数ヶ月間サーフィンに集中していると、あることに気づいた。
それは、この世の中のサーフボードには、プロフェッショナル用、または初級者用のヨタボードしかないとうことだ。
ヨタボードとは、ヨタヨタとかフニャフニャという不全なサーフボードのことだ。
その不全なるソフトボードに目を入れてみると、まともな波に乗るどころか、初級者ですらむずかしい性能の代物だった。
ボディボードを見ると、こちらは完全無欠というか、ソフトコア素材がこの世界を司っていた。この素材を使ってサーフボードを作ってみては?ジョージはピンと来た。
「プロでも楽しく、安全にサーフできるサーフボードを作りたい」
すぐにジョージは、当時オーシャンサイドにいたトム・モーリーを訪ね、サーフボードの未来について熱く語ったあと、二人は「キャッチ・サーフボード」という名前を掲げてタッグを組んだ。
トム・モーリーは、『モーリー・ブギー』で知られる世界で一番売れたボディボードの創始者であり、ふたりの出会いは2007年のことだ。
ジョージは、サンクレメンテの92673サーフ業界エリアであるアマネセラ通りをアーネットとポストオフィスの角に曲がったネゴシオ通りに工場兼事務所&倉庫を借り、トムの先導で製品が作られた。
ちなみにこのエリアには、サーフィング・マガジン誌、サーファーズ・ジャーナル、アストロデッキ、そしてレインボー・サンダルがあった。
トムとジョージのタッグは——今も同じように——生産的で、2008年には、現在の国際マネジャーであるジョエル・マナラスタスをモーリー・ブギー社よりFAで獲得し、2009年の夏、初期ボードが完成した。
スティンガー・スタイルのアフターバーナー・レイル、クアッドフィンのブラックボックスが埋め込まれていった。
これがキャッチサーフの記念すべきファーストモデル『Y-クアッド』だ。
(5'0"、5'6"、6'0"、6'6")
翌年には、Y-クアッドを薄くしたモデル『ザ・ワン』が登場し、そして『ザ・スーパー・ワン』がドロップされるころになると、カリフォルニア・サーフィン界の話題はキャッチサーフのことばかりになった。
このときジョージは、「海水浴場でサーフする」というイベント仕掛人となると決意したという。
アメリカの指定海水浴場は、春の終わりから秋までかけて、ビーチの一定区間を海水浴場エリアとして区切りサーフィン禁止とする。ただ、柔らかい材質で、フィン(スケッグ)もなく、全長が55インチ以内であれば、遊泳可能なので、そこはボディボード天国だった。
ジョージは、その規制にフィットする海水浴場専用ボードを作った。
これが『ビーター(Beater)』だ。
瞬く間にそのビーター人気は全米に広まり、クールな1980年代のビジュアルと共に子どもたちの、そして海水浴場でサーフするシュレッダーたちのツールとなっていった。
(続く)
NAKI(ナキ)■キャッチサーフ社広報、アジア担当エージェント。プロサーファー、1992年メキシコのASPテカテプロ7位を機にフリーサーファーとなる。フォトグラファー、プロデューサー、エッセイストであり、〈ハッピーサーフ思想〉の創始者。また「キャッチサーフの想い」に殉ずる覚悟で、このソフトボード世界へ夢を乗せて日々波に乗っている。ちなみに尊敬する人のひとりに同社主宰のジョージ・アルゼンテとあるのは、リップサービスではなくて真実だ