キャッチサーフのサンクレメンテでビーター・プロトの再制作が始まった。
創業当時は、
ネゴシオ通りに本社があった。
アベニダ・ピコを東上し、
アマネセラ通りを曲がる。
するとすぐにUSポスタル92673郵便局(ランチョ・サンクレメンテ)があり、
その向かいには、
トレンドを一世風靡したアーネット・サングラス、
そしてレインボー・サンダル社があった。
その角を曲がればネゴシオ通りだ。
短い通りの行き止まりのビジネス・コンプレックスだった。
1060 CALLE NEGOCIO #Eと書かれた入口を開けると、
ソファとピンポン・テーブルのエントランスルームがある。
左を見ると、
キャッチサーフのコーポレートロゴが、
カッティングシートで貼られたドアがある。
ドアの内側には、
ジョージとクリスのデスクがあり、
そのまま進むと、
ジョエルとジョニーの部屋となる。
さらに奥へと進むと、
冷蔵庫と小さなテーブルのカフェ・エリアがあり、
バックヤードへ通じる鉄製のドアを開けると、
2ユニット分の大きなバックヤードと、
キャッチサーフ工場があった。
この工場の上には、
トム・モーリーの監督室兼事務所が増設されていた。
Tストリートの天才サーファーのジョニー・レッドモンドは、
キャッチサーフ社の初代ファクトリー担当マネジャーとなった。
そこには自分と同じTストリートから招聘されたアルバイト工員たちがいて、
そこでジョニーは、
ビーター原型のレイル形状を換えつつ、
全体的に幅広のフォルムとした。
さらには剛性を高め、
プロトモデルを完成させていった。
のみならず、
さらにいくつかのプロトモデルを制作した。
一日数十度も工場エリアにやってくるジョージ・アルゼンテは、
いつもの優しいまなざしで、
すべてを見守るように微笑んでいたという。
そのときジョージは、
近い未来に必ず全米のビーチがビーターで埋め尽くされることを想像していた。
「キャッチサーフは、
誰もが安全で楽しく、
そしてカラフルで廉価版海用品の基板となる」
そんなクリアな確信もあった。
やがてサーフボード・タイプ、
ボディボードタイプ・ビーターが完する。
これは2010年のことで、
世の中には映画アバターの大ヒットがあり、
アメリカの経済は、
大恐慌以来という不況から抜けだそうとしていたときだった。
(続く)
NAKI(ナキ)■キャッチサーフ社広報、アジア担当エージェント。プロサーファー、1992年メキシコのASPテカテプロ7位を機にフリーサーファーとなる。フォトグラファー、プロデューサー、エッセイストであり、〈ハッピーサーフ思想〉の創始者。また「キャッチサーフの想い」に殉ずる覚悟で、このソフトボード世界へ夢を乗せて日々波に乗っている。ちなみに尊敬する人のひとりに同社主宰のジョージ・アルゼンテとあるのは、リップサービスではなくて真実だ